相島の歴史

享保から手賀沼に夢を描き続けてきた相島    14代当主 井上 基
14台当主 相島という名は、享保年間、江戸から手賀沼干拓に下向した際、この地域が(南)相馬郡であったため、その「相」と、江戸の居所が(北)豊島郡でありその「島」を取って相島としたものです。
相島の名称は、周辺にもいくつか残っており、印西市の相島六軒、旧沼南町には東相島、西相島という名称の地があります。

 井上家は、近江の商人で、嫡男は代々井上佐治兵衛を名乗ってきました。3代将軍家光の代に江戸に出たといわれています。井上家3代までは江戸尾張町2丁目町(現在の銀座6丁目)名主の職にあり、江戸城に食料品を納める御用商人でしたが、4代目は享保の改革に合わせて、手賀沼干拓に乗り出しました。この事業は、千間堤を構築し、手賀沼を2分し、後に下沼と言われる東半分の比較的浅い部分を水田化し、残りの上沼を沼として残すきわめて大規模な難工事でした。
 この干拓は結局未完に終わりましたが、井上家はここに残り、手賀沼「落とし堀」の事業を鷲之谷(現沼南町)の染谷家、今井家とともに地域の組合自普請として行ったようです。

 現在も新木駅から通じる浅間通りのほとりに残る相島の水神様は、この4代当主が千間堤構築事業を祈念して建立したものと思われます。4代以降は新田名主として、稲作の他、油等食品流通、漁労鳥猟に関わる一方金融業を営んできました。この間、6代定秀は学問に熱心で、たくさんの弟子がおりました。旧三河屋新田には、事情により建立されなかった6代定秀と7代良忠の墓が、井上家の業績に感謝した人々の力で立派に残されています。また、現在、我孫子市の指定文化財となっている建物、表門、母屋、2番の倉は、1847年〜1860年にかけて9代主信の代に建てられたものです。里山として貴重な森を残す井上家墓山には、古墳、稲荷、墓等の祈り場が残されています。

 時代は明治に移り、名主の制度はなくなりました。廃藩置県で郡県制がしかれ、後に11代は郡長に任ぜられています。
 12代井上二郎は本陣横瀬家の次男として生まれ、井上家12代の養子として入りました。東京帝国大学工科大学土木工学科卒業後、全国各地の官民の土木施設の建設に当たりました。日光東照宮の神橋架け替えも二郎の業績といわれています。その後、役所を退職後手賀沼干拓に着手し相島新田、浅間前新田の干拓を行いました。我孫子市の指定文化財「旧井上家」南正面の水田に献穀田の記念碑が残されています。



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